『XIXI(シィシィ)、私を踊る』

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作品概要&ストーリー
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台湾からヨーロッパに留学していたウー・ファン監督が、偶然ベルリンで出会った中国人のコンテンポラリーダンサーXiXi(シィシィ)。ただ独り、まるで自由な鳥のように踊っていた彼女の姿に強烈に惹かれた監督は、彼女の日常を撮影し始める。XiXi(シィシィ)はダンサーとしてヨーロッパを放浪しながら、自由な魂を探す旅をし続けていた。その姿はファンの眼には羽ばたくことを恐れぬ野生の鳥のように美しく映った。一方で彼女は離婚した元夫のメデリックと連絡を取りながら、たまに会うことが許されている娘・ニナに対しては母として、惜しみなく愛情を注いでいた。しかし過去の人生には癒されぬ深い疵が潜むのをカメラは捉え始めていく。それはやがて、ファン監督自らの家族のトラウマとも向き合うきっかけにもなるのだった…。
ウー・ファン監督の初長編作品として7年をかけて製作された本作は、ホットドックス国際ドキュメンタリー映画祭や金馬奨といった世界的な映画祭で共感と感動が拡がり、ついに日本に上陸。一人の表現者として、女性として、母として、様々な社会的役割の狭間でもがくXiXi(シィシィ)の姿は、現代社会を生きる女性たちの煩悶だけでなく、これからの時代を生き抜こうとする力強いアイコンとして強烈な印象を与えるだろう。XiXi(シィシィ)とウー・ファン監督の絆から昇華した本作は、世界中で更新され始めたフェミニズムや女性観の意識が高まっている今、生まれるべくして生まれた瑞々しいシスターフッド・ドキュメンタリーである。
台湾出身のウー・ファン監督を支えたのは、フィリピン出身のプロデューサー、ベニス・デ・カストロ・アティエンザ。ファン監督とはヨーロッパの映画大学で知り合ったベニスは、本作の企画段階から携わり撮影にも参加。主人公であるシィシィとも信頼関係を築きながら、本作の完成、その後の世界展開に導いた。作品の製作過程でスタッフも徐々に集まり、韓国からはプロデューサーのジョ・ソナとハ・ヨンス、そして音響のコ・ウンハ。編集のアンナ・マグダレーナ・シュレンカーはコロンビア出身、音楽を担当したグレッチェン・ジュードはアメリカ出身。XiXi(シィシィ)という個性的なようで普遍的なテーマも抱える女性を主人公とした本作は、文化や国境を越えた女性たちのチームが紡いだ、ウーマンフッドの結集ともいえるだろう。
登場人物紹介
CAST
XiXi
(シィシィ)
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ウー・ファン
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ニナ
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メデリック
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(タオ)
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オーキッド
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インタビュー
INTERVIEW
衝撃的なXiXi(シィシィ)との出会い―
創作活動とライフストーリーの映画化へのワクワク感
Q:初めてシィシィに出会ったときのことを思い出していただけますか? どんなきっかけで、彼女を撮ろうと思われたのでしょうか?
吳璠(ウー・ファン):2017年、私はヨーロッパの映画学校を卒業したばかりで、ベルリンでインターンをしていました。そのとき、たまたまベルリンの公園で開催されていた無料のコンテンポラリーダンスのイベントに、台湾や中国の友人たちと一緒に立ち寄ったんです。 すると舞台の上に、どこの国の人かもわからない、性別すら判別しがたい、強烈な装いのダンサーがいました。彼女の衣装はさまざまな服を継ぎ合わせたようなものでしたが、それがまた妙に格好よくて。イベント自体もストリート色の強い雰囲気だったので、最初は「スタッフの仕込みかな」と思っていました。ところが彼女と話してみると、勝手に舞台に入り込んだだけで、いわば“乱入”だったんです。それなのに完全に空間に溶け込んでいました。それがシィシィだったんですね。
ちょうどその頃、私は実験的な短編を撮りたいと思っていて、雪原を裸足で走るダンサーの身体に血のような赤い象徴的なモチーフを重ねる……そんなイメージを抱いていました。するとシィシィは即座に「やります」と言ってくれて。そこから私たちの物語が始まりました。
Q:監督から「あなたの物語を撮りたい」と言われたとき、シィシィさんはどう感じましたか?
XiXi(シィシィ):とても嬉しくて、すぐに「ぜひ一緒にやりましょう」と答えました。これはどんな経験になるんだろう、とワクワクした気持ちもありましたし「やってみない理由がない」という感覚でした。ちょうど誕生日も近くて、10年近く続けてきた独自の創作活動をこのあたりで一度まとめたいという気持ちもあったんです。そんなタイミングでウー・ファン監督と出会ったのは、きっと何かの縁だと思いました。
なぜ私はXiXi(シィシィ)に惹かれていったのか―
創造していく彼女と「平凡な人間」の私との対比、そして共通点
Q:シィシィを撮り始めた当初から、ご自身の人生経験も作品に入れようと考えていたのでしょうか?それとも撮影の途中で、その必要性を感じたのでしょうか?
吳璠(ウー・ファン):最初はただ彼女を撮りたかった。彼女を知りたかった。それだけでした。撮るという行為を口実に、一緒に過ごしてみたかったんです。私は自分を「平凡な人間」だと思っていて、シィシィのほうがずっと特別な存在に見えていました。ところが撮影が進むうちに、私たちはとても親密になりました。その関係性を観客に伝えるには「なぜ私がこれほど彼女を大切に思うのか」を作品の中で示す必要があると感じるようになったんです。
編集者と話し合い、私も映画の中に登場することを決めました。平凡な女性である私と、恐れを知らず壊しながら創造していくシィシィ。この対比が鏡のように並ぶことで、観客自身がその間のどこかに自分を見つけられるようにしたかったんです。だから、私の登場は編集の後期になって決まったことでした。
正直に言うと、監督としての自分は、最初は「自分を入れる必要はない」と感じていました。私はシィシィとはまったく違う女性です。でも、同じ世界を生きていて、同じ“宇宙”を共有している感覚がありました。また、私の祖母は台湾出身で、まったく違う時代、違う歴史を生きた人です。それでもどこかに共通するものがある。それが、この映画に登場するすべての女性たちの世界を広げてくれると感じました。祖母の物語を通して、シィシィに問いを投げかけ、同時に自分自身にも問いを投げかける。そして、観客の皆さんにも、この物語の中に自分自身を見つけてもらえたらと願っています。
重要だったニナの存在と、映画を受け入れてくれたこと
XiXi(シィシィ)、娘、母、三世代のウーマンフッドの物語
Q:シィシィはとても魅力的ですが、映画が進むにつれて、娘のニナが彼女の人生の“軸”であることが分かってきます。ニナの存在がシィシィの行動の理由になり、また制限にもなります。ニナもとても魅力的な子ですが、子どもを撮影することの難しさはありましたでしょうか?
吳璠(ウー・ファン):シィシィのビデオ日記には「創作」と「娘」の話が最も多く登場します。そして彼女はよく、自分の母親についても語ります。彼女を撮るのであれば、彼女自身・娘・母親という“三つの軸”が不可欠だと最初から感じていました。作品の主構造として「三世代の物語」を据えることは早い段階で決めていましたが、最後に私が参加したことで、私自身の家族の要素も対照的に入れることになり、物語がさらに豊かになったと思います。
ニナに関しては、私とプロデューサー、そしてシィシィの三人で、たくさんの話し合いをしました。というのも、シィシィはニナが赤ちゃんの頃からずっと撮影してきましたが、私たち映画制作者としては、ニナ自身が「この映像が映画になる」とは全く知らなかった、という点をとても意識していました。そしてこの映画では、人生の中でもとても難しい問い、特に「女性として生きること(ウーマンフッド)」について探っています。だから撮影中も、編集に向かう過程でも「いつ、どのタイミングでニナに話すべきか」を常に考えていました。
ニナが成長してきた頃、たしか10歳か11歳になった時でした。私が再びフランスで撮影をした時、彼女の英語もとても上達していて、会話が増えていきました。そこで私はこう伝えました。「お母さんと一緒にこの映画を作っていること。これまでずっとあなたを撮影してきたこと」。そして「どう感じている?」と聞いたんです。すると彼女は、最終的に撮影にも参加するようになりました。彼女が撮った映像は映画には入れられませんでしたが、それでも作品に関わってくれたんです。彼女はとても意欲的でした。ずっとお母さんが撮影している姿を見てきましたし、映画もたくさん観ています。撮影というプロセス自体が、彼女の人生の一部になっていると思います。
振り返ると、シィシィの人生にニナがいると知ったことは、私にとっても重要な瞬間でした。「これは映画になる」と気づいた瞬間でもありました。最初にシィシィに会ったとき、彼女はとても魅力的で、正直に言えば「恋に落ちた」と言えるほど惹かれました。でも、それだけでは映画にはならない。シィシィは自由な存在ですが、彼女には母親としての責任があり、ニナを深く愛している。私はよく編集者にこう言っていました。「この映画は「自由に飛びたい自分」と「地に足をつける存在」の間で生きる物語だ」と。彼女はその間を行き来していて、そこにこの映画が起きている“場”があると感じました。だからニナこそが、この映画を一つにまとめた存在です。私はニナを「物語の通奏低音」と呼んでいます。この映画は、母と娘の関係についての物語です。ニナは三世代目の「娘」なんです。シィシィがいて、彼女の母である桃(タオ)がいて、これは「母たちと娘たち」の物語、同時にこの映画を観るあなた自身についての物語にもなりました。
多国籍な女性たちの製作チーム
東アジア的な価値観への理解と、原語を越えた“直観”の共有
Q:『XiXi』は多国籍のスタッフが集まったチームで制作されています。撮影・後製作の過程でチームをどうまとめていったのでしょうか?また、何か印象的な出来事はありますか?
吳璠(ウー・ファン):まずチームの始まりからお話しします。私がヨーロッパで映画を学んでいたとき、ベニスというフィリピン人の同級生がいました。シィシィと出会う前からの友人で、ベルリンで“ある女性=シィシィ”に出会い、一緒に映画を作りたいと話していました。その後『XiXi』という企画が本格化し、私はベニスに「製作を手伝ってほしい」と頼みました。彼女はシィシィと同世代で、東アジアの文化にも通じているため、作品の細部をとてもよく理解してくれました。彼女は私と一緒にフランスへも行き、三人はしっかりとした協働関係を築けたと思います。
編集者は長く探しました。台湾にも優れた編集者はたくさんいますが、この作品は“東アジアの文脈が強すぎる”と感じて、あえて違う文化圏の人に託したかったんです。そこで思い出したのが、映画学校時代のコロンビア人の同級生、アンナです。彼女は温かく、同時に厳しい編集者で、編集という行為に真剣に向き合う人。彼女しかいないと思いました。
さらに韓国のプロデューサー、ソナさん。彼女は私たちが企画を始めた当初に話を聞いてくれていましたが、当時は欧州資本を想定していたため関われないと思っていたようです。数年後に再会し、私たちも「参加してもらいたい」と思うようになり、チームに加わりました。ソナさんが映画を観て、アメリカ人作曲家のグレッチェンを推薦してくれました。彼女は日本、韓国、台湾に住んだ経験があり、音楽も実験的で、民俗的で、ときにノイズのような質感を持つスタイル。作品を気に入り、アジア経験のおかげで独特の感覚を共有できたようです。振り返れば、私たちのチームは“誰かが誰かを連れてくる”形で自然に広がっていきました。
Q:編集作業ではどのような試行錯誤、対話がありましたか?
吳璠(ウー・ファン):編集初期、私はアンナにこう説明したことがあります。「東アジアの私たち世代は、あまり突出しないよう教育されてきた。特立独行(「独立独歩のこと)で行動する人は孤立する。ただし“優秀”で主流の価値観に合うなら別で、何をしても認められる」。アンナはとても驚いていました。彼女は「コロンビアでは“特別であること”はむしろ褒められる」と言い、自分が平凡すぎるのではと悩んだ経験のほうが多かったそうです。ところが数週間後、彼女はこう言いました。「でもよく考えると、私も“突出してはいけない”と感じたことはあった。ただ、文化的にそれをテーマとして議論する習慣がなかっただけかもしれない」東アジアでは“突出”があまりに明確なテーマとして存在するため、みんなが語り合います。一方、南米ではそれが東アジアほど生々しい問題ではないだけで、特別な人間が孤立しないわけではない。その違いを理解し合えた時間はとても貴重でした。私たちは、アンナがどういう瞬間にそう感じるのかを、一層ずつ丁寧に掘り下げていきました。だからこそ感じたのは、文化が本質的な壁になるわけではないということです。ものごとの語り方や言語は大きく違っても、人生経験そのものは驚くほど似ているのだと思います。そして、優れた編集者には“言語がいらない”ということも痛感しました。言葉を越えた“直感”が、チーム全体にしっかり共有されていたからです。
吳璠(ウー・ファン)からシィシィへの質問:「あなたは“自分に驚かされることが多い”と言いましたが、映画の中で再び見て“怖くなるほど驚いた”場面はありますか?その理由は?」
シィシィ:最初のカットから、もう自分に“驚かされ”ました。あの時の私は、身体の状態だけ見てもわかるほどボロボロで、そんな自分を受け入れるのは難しい。ましてやそれを公に晒すなんて、本当に勇気がいることでした。でも同時に、その矛盾こそが映画に強いリアリティを与えていて、おそらく私は、自分の勇気にいちばん驚いたんだと思います。どんな状況でも、生きようとし、何かを掴もうとして必死だった自分に。
上映を通して拡がる、観客それぞれの“わたし”の物語
女性たちの生き方をもっと多様に、自由に語れるように
Q:本作は2017年から撮影を開始し、パンデミックも挟みながら制作を続け、ついに今年(2024年)スクリーンで完成版がお披露目されました。国や社会環境によって観客の反応に違いはありますか?
吳璠(ウー・ファン):この映画はカナダの映画祭で初上映されましたが、その時の観客の反応はとても温かく、上映後のディスカッションも活発でした。韓国でも好意的で、台湾ではさらに興味深く、観客の議論がとても盛り上がります。この物語は台湾の文化や生活と密接につながっているからこそ、好き嫌いに関わらず「身近すぎて語らずにはいられない」何かを呼び起こすのだと思います。 私が映画を好きな理由のひとつは、自分が弱く、迷いの中にいるとき、一本の映画が“孤独じゃない”と思わせてくれた経験が何度もあるからです。だから本作も、世界にすぐ理解されない存在としてのシィシィが、必死に自分の世界を切り開こうとする姿を描き、彼が立ち上がれる空間を一緒に作りたいと思いました。生きていると、世界との摩擦は避けられません。でも、誰もがシィシィのように激しくぶつかる必要はない。この作品を通して、観客が少しでも“孤独ではない”と感じられたらと思っています。 映画には、日常のなかの微細な瞬間が数多く登場します。本来は「人」として当然の権利があるはずのことでも、社会の側がまだ準備できていない場合があります。たとえば、私の月経の話、シィシィや彼の母親が語る性被害の経験など、本来“語るべき”なのに、社会はそれを恥とみなし、私たちにその恥を背負わせる。それに耐えることを強いてくる。だから私は問いかけたいのです。なぜ私たちは自分の身体の自然な感覚を恥じなければならないのか?そしてシィシィという“伝統的な母親像”にも“一般的な女性像”にも当てはまらない人物を通して、人や女性の姿をもっと多様に語れるようにしたい。特定の枠で「女性」を縛らずに済むようにすること。それがこの作品の目標でもあります。
クレジット
CREDIT
原題:XiXi
(2024/台湾、フィリピン、韓国/中国語、英語、フランス語/100分/カラー/5.1ch/DCP)
撮影:ウー・ファン、ベニス・デ・カストロ・アティエンザ
編集:アンナ・マグダレーナ・シュレンカー/音響:コ・ウンハ/音楽:グレッチェン・ジュード
プロデューサー:ベニス・デ・カストロ・アティエンザ、ウー・ファン、ジョ・ソナ、ハ・ヨンス
製作:スヴェミルコ・オーディオビジュアル・アートプロダクションズ
配給・宣伝:テレザ、ノンデライコ
©SVEMIRKO AUDIOVISUAL ART PRODUCTIONS